消し炭になりたい

僕が触れた様々な創作の感想を不定期で書いていきます。

『天気の子』感想・考察 -『天気の子』が持つ二面性について-

※ネタバレを含むので、注意してください。 

 

 

 

 

 

1.はじめに

 僕は新海誠作品を見るのが初めてだったので、『君の名は』等と比較して語ることはできないが、想像よりも“大衆エンタメ”的な作風とはかけ離れているというのが最初に受けた大まかな印象であった。(『君の名は』のヒットぶりを見るに、あちらはおそらく“大衆向け”であろうことが推測できるから。)新海誠自身、評価が分かれる映画になると事前に言っていたそうだが、そのことが手に取るようにわかる作風だった。実際、映画が終わり劇場から帰る際も、賛否の意見両方共が耳に入ってきたのを覚えている。

2.『天気の子』の特異性

 では、どうして“大衆向き”な作風ではないのかを具体的に紐解いていく。『天気の子』は一言で言えば、“反社会的”な作品なのだ。帆高は世界ではなく、陽菜を選ぶ。それだけならまだいい。それに加えて、世界を切り捨てている。世界を選ばなかっただけでなく、見捨ててまでいるのだ。大抵の“大衆向け”の作品であれば、1つの大事なもの(『天気の子』で言えば陽菜にあたる)を選択しつつも、何だかんだで世界も同時に救うという結末を迎えるはずだ。ところが、『天気の子』はそうはならない。社会や世界への反抗を徹底することによって、1人の女の子を救う。この“反社会性”の内包が“大衆向け”でないと僕が考える要因だ。

 そしてそもそもこのような話の構成は、今現在の創作の潮流を無視している。最近の創作(特に“大衆向け”の作品)の傾向として、“頑張って社会的な人間に成長しなければならない”というテーマが根底にあるように僕は考えている。それは物語の流行りが“セカイ系”から“日常系”へと移り変わったことで、世界規模レベルで物事を大袈裟に考え辟易することが中二病的だと一蹴され始め、身近な単位での出来事の描写が増したことに起因しているのだろうが、とにかく主人公やその周りの人物達の最終到達点が“大人の社会って嘘にまみれた汚い世界だよね”という認識を持つことではなく、“そんな世界だけど、歯を食いしばってでも参画していかないとダメだよね”という所まで辿り着くことへとシフトしているのだ。そんな時代のトレンドに真っ向から喧嘩を売っているのが、『天気の子』だ。拳銃の所持と使用、警察という社会組織の象徴に対する反発、社会的に圧倒的に好まれる“晴れ”を無理やり作り上げることへの嫌悪、そして“家族”という社会からの脱却等々、例を挙げればキリがないが、作中にそういった形で社会に馴染もうとすることを辞め、自分の世界に引きこもることに徹した主人公達の姿がありありと描かれている。

3.今、『天気の子』が世に出された意義

 では何故このような作品を、新海誠は自ら賛否両論になると評したのか。それは、人間という生き物が“社会性”を前提としているからだ。そこがどんなに醜いところであろうとも、社会の一員になることは決して悪いことではないのだ。むしろ、そうしないことの方が悪であると言ってもいい。だからこそ、そのような社会的思想へのアンチテーゼのように存在する『天気の子』は、物議を醸さなければいけないのだ。無条件で大勢の人々に認められてはいけないのだ。拒絶反応を示す人がいなくてはならないのだ。『天気の子』が盲目的に大衆受容された世界というのは、考えるだけでも恐ろしいものではないだろうか。

4.“セカイ系”における恋愛の可能性

 そして“セカイ系”における恋愛は、一般的に描かれる“社会的”な恋愛とは異なり、基本的に世界を敵に回して男女が結ばれることが多い。何故ならば、“セカイ系”というものがその大体において、親密圏と世界との対立構造によって成り立っているからだ。『天気の子』も、もちろん例外ではない。人知の及ばない“空”と繋がったことで“反社会的性格”を帯びた陽菜と、社会に息苦しさを感じ、“家族”という社会から脱却することによって“反社会的性格”を帯びた帆高の織り成す恋愛は、社会を完全に無視することにより成就することとなる。その文脈における恋愛とは、“社会的”な繋がりというよりもむしろ、“反社会性”を纏った存在として成立するための統合を意味するのではないか。その結果が“晴れ”の断絶であり、永続的な“雨”の発生そのものである。この時、彼らは“大人”になることを放棄し、“子供”であり続けることを選択する。その意味において、“反社会性”という“社会性”を彼らは有することとなる。それ故に、世界は消えることなく、存続することができるのだ。“セカイ系”における恋愛は、単なる男女の“社会的結束”を強固にする恋愛の域を超越し、世界全体を映し出すものとして描かれていると言っても過言ではないだろう。

 また、帆高が常に陽菜を追いかけるという構造になっているのにも注目したい。恋愛とは一般的に相互的なものである。もちろん、依存度の違いは少なからず存在するだろうが、おおよその場合、お互いがお互いを求め合うものであろう。しかし、この場合においては事情がかなり違う。帆高にとって陽菜は社会からドロップアウトした自分の受け皿のようなものであり、それはつまり、“社会的な死”へと向かうしかない自分に対する最後のストッパーであると言えよう。陽菜を“社会的な死”から救うという構造の裏に、自分も“社会的な死”から救われたいという願望が潜んでいるのだ。追うということは、すなわち欲望するということである。

 5.おわりに

 新海誠は『天気の子』が意見の割れる作品だと言った。それは言い換えれば、賛否の分かれる作品であって欲しいという願いが込められているとも受け取れないだろうか。『天気の子』が含有する“反社会性”を僕達がどう受け止め、どう解釈し、どう生かすか。その善悪、その社会的な脈略をどのように考え、理解するか。それはとても大きな意義を持つように感じられる。一度目を閉じて、『天気の子』に真摯に向き合うべきであろう。

 これは余談だが、『天気の子』が気に入った方は是非、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(J.D.サリンジャー著 村上春樹訳 白水社)を読んでみて欲しい。

“『天気の子』の主人公である帆高”が冒頭でこれを読んでいた意味が、きっと理解できるのではないだろうか。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

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安岡章太郎『海辺の光景』感想

「人格破綻者」、「薄情者」と罵られる覚悟はできている。

 

私はこの小説を読み、胸を突かれたような気持ちになった。絶対に公にはしたくない自身の負の感情、没社会的な感情を掘り起こされたからだ。

 

少々脚色して話すので、そこは了承して頂きたい。

 

私は小学生の時、祖父母のお見舞いをしによく病院を訪れていた。

正直に言って、面倒事の1つであった。

見舞いに行ったところで、何が起きるわけでもなく、寝たきり状態の祖父母をただ数十分見つめているだけだったからだ。

それに病院に行く度に、あの独特な無機質的雰囲気を醸す機械的空間に、生気を吸われている感じがしたのも、私の足取りを重くした一因だ。

そんな病院の異質な様相も相まって、私は祖父母を見つめていても、祖父母を見つめている感じがしなかったのである。

要するに、見舞いに行く意味が分からなかったのだ。

その気持ちは今となっても、変わらない。

親に連れていかれたから。

あえて理由をつけるならば、こうなるのだろうか。

 

とても醜いことを書いているので筆が中々進まないが、これが正真正銘私の本心だ。

 

このような思うことすら重罪に値するような感情を、私はずっと心の奥底に仕舞っていた。

それが『海辺の光景』によって、表に出てきてしまったのである。

 

私の父親も『海辺の光景』を読んだらしい。当たり前だが、私の父親にとっては祖父母は両親なので、私よりも思うことはたくさんあっただろう。

だが父は、そして信太郎は何だか親でなくなってしまったような親に対し、寄り添おうとしていたのである。親子の間にある切っても切れない糸を、親と対面することで意識していたのである。そうして最後にはその親の“死”に対し、実感を伴いながら向き合うことができたのだ。

 

私はどうだろうか。

「親子」と「祖父母と孫」では全然違うということも、もしかしたらあるのかもしれない。

思い入れも少なく、危篤状態であるというのもあるのかもしれない。

だが、それは些細な問題のように感じられる。

私は、祖父母との間に強固な繋がりを見出せていたのだろうか。

私は“孫”らしくいられたのだろうか。

私は“人間”らしくいられたのだろうか。

そんなことを考える。

 

その答えは、まだ見えてこない。

私が“親”に直面した時、それを理解することができるのかもしれない。

そうであって欲しい。

そう、願っている。

『Ninja Girl and the Mysterious Army of Urban Legend Monsters! ~Hunt of the Headless Horseman~』感想、考察 -人間らしくあるために-

※ネタバレ有るので、注意してください。

 

 

 

 

 

 

1、はじめに

このゲームは元々海外展開を主軸に制作されたということだけあって、舞台がアメリカに置かれ、日本人の視点からは日常的で説明不要な自国の文化が丁寧に説明されていたり、作中のトリックにアメリカの文化が用いられたりしている。そういったものは日本産のゲームにおいて滅多に見られないため新鮮であり、また自国の文化を含めた様々な文化が交じる様相というのは、何だか自然と気分が高揚し、感慨深くなるものである。

 

2、総評 

さて、ゲーム内容に触れていくが、ロープライスであるからボリュームが少なく、物足りなさ、掘り下げ不足を感じたものの、全体として満足する出来であった。

渡辺僚一というライターは、博識な人物であり、それが物語テイスト、そして文章に遺憾なく発揮されている。先ほども述べたような、様々な文化(日本、アメリカ、そして中国)の交じり合いというのは、正にその一例である。

そしてそれは、戦闘シーンにも表出している。日本人であっても、今日、忍者という存在は疎遠なものであるから、忍者の武具、様式等についての詳細な記述は、興味をそそられるものであった。初見の知識や設定が頻出しても、それが独り歩きしていないところに、渡辺僚一の才能があるのだろう。

 

3、日本語が持つ文章美、そして翻訳の可能性

日本語というのは美しい言語であると私は考えている。言語というのが文化に根付くものであり、そしてその日本文化が好きであるから個人的にそんなことを感じるだけかもしれないが、日本語には独特の麗らかな表現が存在するのではないだろうか。

例えば

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上の画像の文章に見られる“斬”や“断”、“突”のような表現である。

言うまでもなく、これらの言葉には単純で本来的な意味がある。が、それ以上にある種芸能的な美しさを追及した戦闘様式、そしてそのイメージが内包されていると私は考えている。

ここで問題になるのは、果たしてそのイメージが“slash”や“cleave”にも存在しているのかという話である。

私は西洋の文化には疎いので、ここではっきりと断定することは避けさせてもらうが、もしそのイメージが損なわれているのだとしたら、それは大変残念なことである。翻訳という作業の特性上、仕方のないことなのかもしれない。上記したように言語は文化を前提にするものであるから、自国の文化に存在しない事象を言語化することなど不可能なのだ。だがやはり、日本のライターが日本特有の優美を込めて綴ったこの文章を、海外の人がその風味を損なわないまま嗜めないというのは、とても悲しいことのように感じられる。

 

4、内包された主題、渡辺僚一の作品に共通するもの

渡辺僚一の他の作品にも散見されるテーマ性が本作品にも見られる。それは、“何のために生きるのか、その意味を問う”というものである。

霧とメアリー。彼女らは首なし騎士に借りを返し、復讐するために集っている。だが、彼女らは自らの意志でそうしているのではなく、他人から言われてそうしているのである。忍者という封建制を象徴したような役職と、他人の怨念によって駆り立てられた幽霊という以上は、他者の存在が自己よりも前に出るのは当たり前ではあるのだが、彼女らは役職云々の前に1人の人間、女の子なのである。それが自我を持たないなんてあまりにも辛いことではないか。

そんな彼女達だが、最初は首なし騎士を倒すことが自分らの命よりも優先事項であったのに、しだいにそれが変化していく。

首なし騎士に負けそうになった時に、強く生を意識する霧。死が眼前に迫った時にこそ、強烈に生を認識するなんて言うまでもないことだと思われるかもしれないが、彼女は忍者である。死を、そして生を訓練を通して昔から身近に感じてきたのだ。それらを目の前にしても、何も心残りを残さないように矯正されてきたのだ。そんな彼女が死にたくないと願ったのである。

そして一方、消滅のその直前まで相手を倒すことを最優先した首なし騎士。それを見て、メアリーはその面影に自己を見出してしまい、彼女の瞳に動揺の色が濃くなる。だが彼女はついにそれを振り払って、首なし騎士を撃退することに成功したのである。メアリーはこれによって、過去の自分との決別を果たしたと言えよう。

つまり、霧とメアリーはその関わり合いを通して、首なし騎士討伐という目的以上の繋がりを彼女らの中に発見したのだ。これこそが、彼女らを人間たらしめる、生きる意義なのではないだろうか。

霧とメアリーの慣れ初めをもう少し掘り下げれば、よりこのことが強調されたのではないかと気がかりになる。もちろん既に十分キャラクターとしてアイデンティティが確立されているのは、流石と言わざるを得ないことなのだが。

 

この生を切望するテーマ性は、渡辺僚一の他の作品、特にすみっこ系と呼ばれる終末を題材とした作品によく見られる。近作に『缶詰少女ノ終末世界』というものがあるし、気になった方は是非そちらをプレイすることをお勧めする。

『ひこうき雲の向こう側』瑛莉√感想 赤髪ヒロインは最高だぜという話

どうもこんにちは。

初めましての人は初めまして。

ひこうき雲の向こう側』瑛莉√を攻略したので、その感想を綴っていきます。

何故この√だけなのと言われれば、それだけ面白かったからです。

 

※ネタバレ有りです。未プレイの方は閲覧非推奨。

 

 

 

 

 

 

美汐瑛莉

√全体を通して、非常に緻密に瑛莉の心情変化が描写されていたと思います。

段々とかけがいのないものを手に入れ、それを手放すまいと頑張る彼女の姿が。

 

瑛莉は恋を“できない”のではなく、“知らない”だけ。

勉強も運動も完璧な彼女にとって、自分にない魅力を持った人がいなかったという話でしょう。

そんな中で、佐藤さんを振るという贅沢で普通ならあり得ないような行動をした康司に、彼女は惹かれたのではないでしょうか。

言ってしまえば、彼女の恋はその瞬間から始まっていたと言えます。

 

そして、彼女の性格と、そして初めて経験する感情に対する戸惑いから中々自分の気持ちに素直になれない瑛莉。

結局、康司にきちんと言葉で想いを伝えられたのは何十年も後の話ですが、そんなところも彼女らしくて可愛かったですね。

 

 

広崎康司

康司は完全に恋愛が“できない”のでしょう。

美奈と義理であるとは言え家族になってしまうということで、自分の恋愛を中途半端な形で強制終了させられた。

彼の恋愛は、その瞬間で止まっていたのです。

ですが、瑛莉と出会い、そして恋を求める彼女を見て、自分の恋と向き合い、再スタートさせることができたのではないでしょうか。

 

戸井潤

戸井君は康司と同じく恋愛が“できない”人物。

今の関係が健全で、心地が良く、それを失いたくない。

それに、向こうはこちらに恋愛感情は抱いていない。

 

近く親しい関係にいる方が、かえって恋に発展させ辛いのかもしれませんね。

 

テーマ

恋は曖昧で、不定形である。

恋愛の仕方は人それぞれだし、その線引きはあやふや。

真実の恋だの何だの言っていた瑛莉自身、康司との関係の発展は特殊でしたから。

恋しているのは他の誰でもない自分なのですから、それが本当かどうかを決めるのも自分なわけです。

 

そして、青春。

大切な仲間と、大切な時間を共に過ごす。

康司が来てからの観測部での日々は、上辺の付き合いが多かった瑛莉にとって濃密で何物にも代えられないものだったでしょう。

 

 

 

 

 

こんなところです。

全体の感想は書くかもしれませんし、書かないかもしれません。

この√が『ひこうき雲の向こう側』のメインであることは間違いないし、テーマがおそらくここに凝縮されてるだろうからです。

 

次の記事が何になるにせよ、良ければまたお願いします。

『魔女こいにっき』プレイ感想、考察 -理想と現実-

どうもこんにちは。

魔女こいにっきを全クリしたので、その感想を書きに来ました。

 

聖√のみの感想もあるので、よければそちらもどうぞ。

kesizumi.hatenablog.com

 

それでは早速、いくつかのテーマに分けて話していきます。

 

 

 

※ネタバレ有りです。未プレイの方は気をつけてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

桜井たくみ

『魔女こいにっき』を語る上で外せない、重要だと思ってる人物がいて、その1人目が桜井たくみです。

何と言ったって魔女こいにっきは、ほぼ彼視点の日記ですからね。

 

さて、魔女こいにっきには彼と様々な少女の出会いや別れが綴られているわけですが、それは全て南乃ありすのためだったんです。

 

たくみとありすは2人で物語を終えようとする。そのことが気に入らないアリス(後の項で詳しく扱います。)はありすの記憶を消してしまいます。

そうしてありすの記憶からいなくなった、たくみ。

その現実を受け入れることができず、自らも記憶を消し、その後はどうしようもない寂しさを紛らわすために色々な女の子と関係を持つ。

このどうしようもない寂しさというのはきっと、隣にありすがいないことからくるものでしょう。記憶がないながらも、本能的に求めていたのではないでしょうか。ありすとの再会を。

そして、彼は様々な少女に物語を語った末に、ついに最後の記憶の欠落であるありすについて思い出し、バラゴンとしてありすと出会い、今度はありすに自分を思い出してもらうために、自身が描いてきた物語を彼女に集めさせます。

 

さてこの桜井たくみ、ひいてはジャバウォックという人物は軽薄ではないか、という意見が散見されます。

理由は言うまでもなく、現実を見ることなく理想ばかりを追い求める姿勢、そして数々の女の子と関係を持ち、中には一夜限りのこともあるということ。

僕も軽薄だという意見には賛成です。

本人は一夜限りだとしても、その時その瞬間だけはその子のことしか見ていないし、体裁のために付き合って、結婚するよりはマシだと言います。

梢先生にそれは詭弁だと言い返されるのですが、本当にその通りだと思います。

ただの屁理屈です。

 

かといって、彼の全てを否定するわけではありません。

彼は、ただ理想を掲げるだけではないのです。

理想を理想で終わらせない。

それは実現できるかどうかの話ではなく、覚悟の問題です。

彼には、理想を本気で現実にしようとする覚悟がある。

そして彼が物語を見せる女の子もまた皆、覚悟を持っています。

それは最初からあったのではなく、途中でたくみに諭され芽生えたものであるかもしれないけれど。

 

だからたくみが持つ理想は、嘘でも逃げでもなく、どこまでも真実なんじゃないでしょうか。

彼自身は、自分を嘘つきだと自嘲していましたが、彼の物語に魅せられ、そして自分で素晴らしい物語を紡いだ数多くのヒロインを見ると、とてもそうは思えないのです。

 

藤田崑崙

なんで物語始動以前から主人公のことが好きなヒロインって、こんなにも可愛いのでしょうか。魔女こいヒロインズの中でダントツに可愛い。好き!

 

それはさておき、魔女こいにっきっていう名前の由来、崑崙がジャバウォックに恋していたことが1つだと思うんですよね。

彼女はずっと、たくみのことを想っていた。それは、彼がまだジャバウォックと呼ばれていた頃から。

なのに、彼は一向に振り向いてくれない。数多の女の子に手を出しているのに、崑崙にはちっともなびかない。

そんな中アリスの助長もあり、彼女は嘘をついてしまいます。たくみが南乃ありすとの思い出にもう少しで辿り着きそうだった時、南乃ありすの役割を自分にすり変えてしまうのです。

 

自分の好きな人が自分のことを好きじゃない。

これほど辛いことはないから、と。

 

これデジャブだと思ったら、前例が既に作中に出てきてるんです。

それは、ありすの親友のけーこの話。ややこしくなるので詳しくは書きませんが、けーこも同じ想いを抱えていました。それで、大切にしていた猫を犠牲にしてまで願いを叶えてしまう。

 

それを見て、ありすは問う。

「相手の気持ちはどうなるの?」

けーこは答える。

「知らない」

 

『魔女こいにっき』が提示する恋愛観が、ここに表れているのではないでしょうか。

 

話を戻しますが、そうして崑崙は想いを成就させます。

そこからというものの…この√は甘々です。

他のヒロインが霞むぐらいのヒロイン力を、崑崙は見せつけます。

この√単体を見れば、悪い意味でキャラゲーと一蹴されたことでしょう。

しかし、上述した文脈にあるからこそ、この√はキャラゲーという中身を持ったシナリオゲーに昇華したのです。

 

マジで可愛い。僕も崑崙ちゃんとイチャイチャしたいよ!くそ!!!

 

では何故最後に、崑崙は本当のことをたくみに伝えたのか?

 

それは、たくみ…ジャバウォックのことが本当に好きだからです。

彼女はジャバウォック、そして彼の語る理想、いわば物語が好きだった。

今の彼は本来の彼ではない。

本来語り手でならなければいけないのに、今は崑崙の物語の読み手になっている。

それではいけないのです。

もちろん、辛く悲しいでしょう。彼と結ばれている物語に幕を下ろすのは。

それでも、彼の物語が、彼が好きだから、崑崙は本を閉じることを選んだのです。

 

なんて純情な子なんだ、崑崙…。

 

アリス

アリスに関しては、作中で多くは語られていません。新島先生特有の、ぶつ切りのような感じで終わってしまいましたから。

だから、本来なら語ることもそうないのかもしれませんが、ここは新島先生ファンとして深く掘り下げてみようと思います。

 

アリスの心の内は言うまでもなく、自分の好きな人であるジャバウォックが、自分のことを好きじゃない。それがとても辛い。

だから彼女は、魔女こいにっきを作った。自分でない“アリス”を作り、ジャバウォックと恋をさせ、まるでそれが自分と彼の体験であるかのように解釈した。

だから、彼が物語を終えようとした時は必死に止めた。

何故ならそれは、自分の理想が、物語が終わることを意味していたから。

 

それでもジャバウォックは物語を終わらせ、アリスに辿り着いた。

アリスが描いた物語は終わり、ジャバウォックがアリスのことを好きではないという現実が彼女に迫る。

そのことに狂乱する彼女。

やはりジャバウォックは自分の気持ちには応えてくれません。

現実は上手くいかないのです。

そこで、アリスはまるで心中するかのようにジャバウォックと共に、時計塔の歯車となります。 

 

「お前を愛することはできない」

「代わりに、この痛みと歯車の悲鳴を愛そう」

 

アリスをもう愛することはないジャバウォック。

しかし、彼もまた現実に寂しさを感じ、物語に救いを求めた人物。

自分ではもう物語を生み出せない彼は、最後にアリスの描く物語に惹かれたのでしょうか。

 

『魔女こいにっき』のテーマ

『魔女こいにっき』のテーマとはなんでしょうか。

 

現実は厳しい。

世界は自分を中心に回っているわけではないから、思い通りにいかないこともある。

むしろ、そういうことばっかりかもしれない。

そんな時は、理想を描こう。

物語に浸ろう。

それは一番絶頂の瞬間、めでたしめでたしなところで終わるから。

永遠の楽園が閉じ込められているから。

 

時には理想に、物語に没入し、余計に現実が嫌になることもある。

だけど、どうしようもなく現実世界に辟易してしまった時に、多少なりとも心の隙間を埋めてくれるはずだ。

 

そういうことを言っている物語なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

ここまで読んで頂き、ありがとうございます。

拙いながらも、僕が『魔女こいにっき』から汲み取ったことを伝えたつもりです。

少しでも楽しんで頂けたのなら、幸いです。

 

何か意見や感想があれば、コメントをくれると嬉しいです。

 

それではまた!

魔女こいにっき 聖√感想 -無為と平穏はイコールではない-

どうもこんにちは。

『魔女こいにっき』聖√の感想ということで、まだ全クリはしていないのですが、僕なりに色々思うことがあったので、書きに来ました。

聖√攻略時点では、まだまだ謎多き物語ですので、不明瞭だったり的を得ない発言をするかもしれませんが、そこはご容赦ください。

 

※ネタバレ有りです。注意してくださいね。

 

 

 

 

 

この√のテーマはズバリ、「人間は完璧ではない」ということでしょう。

完璧じゃないから、間違いを犯すし、時にはそれで周りを傷つけることもある。

 

重要なのは、だからと言ってそこで立ち止まらないこと。

 

間違いを犯すのが、誰かを傷つけるのが怖いから何もしない。

平穏が崩れ去るのが怖いから何もしない。

理想的な日常を保とうとする。

 

でもそれって果たして平穏なんでしょうか?

理想的なんでしょうか?

 

そこには我慢が潜在していると思うんですよね。

 

堀田の例で言えば、あっちゃんへの未練を我慢する。

また傷つけられるのが怖いから。

今度は自分が傷つけてしまうかもしれないのが怖いから。

 

聖の例で言えば、お母さんに会いたいのをずっと我慢する。

お母さんに会うことで、自分が余計に傷つくのが怖いから。

自分がお母さんを傷つけてしまうのが怖いから。

 

2人とも、何が起こるかわからないから怖いんですよね。

 

もしかしたら、堀田とあっちゃんは上手くやり直せるかもしれないし、聖とお母さんも普通の親子のようになれるかもしれない。

 

でもやっぱり現実はそんな上手くいかなくて。

 

そうやって、噛み合わないかもしれないのが怖い。

 

だから、我慢して平穏な日常を作ろうとする。

 

でも、我慢から成る“平穏”は実は不完全で。

それは一本の細い糸でギリギリ保たれた均衡で。

ふとしたことで、すぐに切れてしまう。

 

だから、失敗して、また失敗して、幾度となく失敗を重ねながら理想を目指していく。

 

失敗は結果ではなく、自分の求める理想に至る過程なんだ。

 

堀田とあっちゃんはまたぶつかるかもしれない。

 

聖とお母さんはまだまだ普通の親子のようになるには時間がかかるだろう。

ギクシャクした感じが、しばらく続くかもしれない。

 

それでも、その先に、かつて自分が我慢した平穏で理想的な未来が待っているのではないでしょうか。

 

何もしないということは、時間がそこで止まってしまうということです。

 

結果がどうであれ、行動することこそが、その人の人生を前進させるのではないでしょうか。

 

 

 

ちなみに、最初に聖√の感想と述べましたが、恋√にも言えることだと思います。

 

恋可愛いよね。サブには勿体ないくらいだ…。

 

 

 

 

 

こんなところです。

また、全√攻略したら、記事を書きに来ます。

今度はヒロインサイドだけでなく、桜井たくみにも焦点を当てれたらと思ってます。

 

それではまた!

2018年秋アニメ感想

どうもこんにちは。

初めましての人は初めまして。

2018年秋アニメの感想です。

アニメを見るのは久々でしたが、中々楽しめました。

 

 

転生したらスライムだった件

個性的なキャラ達が魅力的で面白い。

異世界での目的を、その時々で探していく感じが良い方向に効いてると思います。

2クールめも期待。

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない

 思春期症候群という概念を用いて、思春期のよくある難しい問題に向き合うお話でした。

この作品、実は原作1巻発売当初に買って読んだのですが、つまらなく感じて読むのやめたんですよね。

多分、当時中学生だった僕はまだまだ色々と経験が浅く、青ブタの言ってることが理解できなかったから、つまらないと感じたんだと思います。

だからこそ言います。

今、中高生の人達にこそ見て欲しい作品ですね。

仮にかつての僕のように理解できないのだとしたら、理解できるまで見直してください。

青ブタが取り扱う問題の数々は、思春期には難しい、だけれども思春期のうちに克服しておきたいものばかりだと感じております。

だから、見て、理解して、自分なりの答えを見つけていただきたいです。

そうしたら、人間として強くなれると思いますよ。

寄宿学校のジュリエット

今期で一番好きだった。原作も買いました。

やっぱりラブコメはいいですね。

付き合ったその後を描いてくれるっていうのは、ラブコメ好きにはたまりません。

全体的に不満はあんまりないですが、後半作画が悪くなってたのと、進行ペースが遅くなったからかテンポが悪くぎこちなかったのが惜しい点でした。

ただ、アニオリ展開や、原作の台詞やシーンの切り捨て方はかなり上手かったです。アニメという表現媒体のポテンシャルを理解した上で、寄宿学校のジュリエット”というコンテンツの魅力を上手く引き出すことができていたと思います。

 

色づく世界の明日から

正直最初は雰囲気が好きなだけの作品でした。

特に話に盛り上がりがなく、淡々と学園生活が描かれるだけ。

だけど最終回、瞳美が前を向いた、瞳美の世界が色づいた時にその何気ない青春譚を振り返ると、ものすごく輝いているように感じられました。

瞳美の世界を彩ったのは、それまでの日々の積み重ねであると確かに思わされました。

元気をもらえました。

ゴブリンスレイヤー

ゴブリンを倒しても世界は救えない、けれども村や街は救える。

ゴブリンがあの世界において、小さいようで大きな脅威であることを上手く表現できていました。

以前の記事で言った、1話で植え付けた恐怖感情を無駄にしてはいけないっていうのが実現できてたと思います。

11話と12話は熱かった。

みんなで協力して倒すっていう王道展開はいつ見ても燃えますね。

…最後のメッセージ、2期やることを匂わせたんですか?

SSSS_GRIDMAN

最終回が賛否両論っぽいですが、個人的には面白かったと思います。

こういう特撮系は眩しいくらいの王道展開で構成され、見てて恥ずかしい部分もあるのですが、それも含めて楽しめました。

世界観の重厚さ、その明かし方は感心しました。

そこら辺は子供向けの特撮ではなく、深夜アニメであることを意識しているんですかね。

ただ、「アカネを更生させる」っていう、おそらくこのアニメの一番の見せ所を、変なビームで片付けてしまったのはかなり残念でした。

あのビームは、リメイク前の電光超人グリッドマンと関係があって、それを知ってる人はかなり興奮したらしいですが、からしてみれば「知らんがなw」の一言に尽きます。

そういう原作ネタみたいなのをやるのは構いませんが、最終形態のグリッドマンのみ使えるビームで、アカネを更生させられるということを、伏線として散りばめて欲しかったですね。11話までの積み重ねがあっての、あのビームだったのなら納得できたのに、あの出し方では、いきなり出てきて美味しいとこ持ってった意味わからんやつという印象以外持てません。

まあ、良くも悪くも特撮ってそんなもんだと、受け入れることができたので、全体の評価はそこまで悪くないです。

…結局、裕太と六花の約束ってなんだったの? なんでopで手繋いでたの?

 

 

 

 

 

こんなところです。

 

アニメというのは1話25分で、受動的な媒体なので、気軽に見れるのがいいですね。

これを機にまたアニメを見るのを習慣にしていこうと思います。

 

何か意見などあればコメントよろしくお願いします。喜びます。

 

それではまた!