消し炭になりたい

僕が触れた様々な創作の感想を不定期で書いていきます。

『Ninja Girl and the Mysterious Army of Urban Legend Monsters! ~Hunt of the Headless Horseman~』感想、考察 -人間らしくあるために-

※ネタバレ有るので、注意してください。

 

 

 

 

 

 

1、はじめに

このゲームは元々海外展開を主軸に制作されたということだけあって、舞台がアメリカに置かれ、日本人の視点からは日常的で説明不要な自国の文化が丁寧に説明されていたり、作中のトリックにアメリカの文化が用いられたりしている。そういったものは日本産のゲームにおいて滅多に見られないため新鮮であり、また自国の文化を含めた様々な文化が交じる様相というのは、何だか自然と気分が高揚し、感慨深くなるものである。

 

2、総評 

さて、ゲーム内容に触れていくが、ロープライスであるからボリュームが少なく、物足りなさ、掘り下げ不足を感じたものの、全体として満足する出来であった。

渡辺僚一というライターは、博識な人物であり、それが物語テイスト、そして文章に遺憾なく発揮されている。先ほども述べたような、様々な文化(日本、アメリカ、そして中国)の交じり合いというのは、正にその一例である。

そしてそれは、戦闘シーンにも表出している。日本人であっても、今日、忍者という存在は疎遠なものであるから、忍者の武具、様式等についての詳細な記述は、興味をそそられるものであった。初見の知識や設定が頻出しても、それが独り歩きしていないところに、渡辺僚一の才能があるのだろう。

 

3、日本語が持つ文章美、そして翻訳の可能性

日本語というのは美しい言語であると私は考えている。言語というのが文化に根付くものであり、そしてその日本文化が好きであるから個人的にそんなことを感じるだけかもしれないが、日本語には独特の麗らかな表現が存在するのではないだろうか。

例えば

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上の画像の文章に見られる“斬”や“断”、“突”のような表現である。

言うまでもなく、これらの言葉には単純で本来的な意味がある。が、それ以上にある種芸能的な美しさを追及した戦闘様式、そしてそのイメージが内包されていると私は考えている。

ここで問題になるのは、果たしてそのイメージが“slash”や“cleave”にも存在しているのかという話である。

私は西洋の文化には疎いので、ここではっきりと断定することは避けさせてもらうが、もしそのイメージが損なわれているのだとしたら、それは大変残念なことである。翻訳という作業の特性上、仕方のないことなのかもしれない。上記したように言語は文化を前提にするものであるから、自国の文化に存在しない事象を言語化することなど不可能なのだ。だがやはり、日本のライターが日本特有の優美を込めて綴ったこの文章を、海外の人がその風味を損なわないまま嗜めないというのは、とても悲しいことのように感じられる。

 

4、内包された主題、渡辺僚一の作品に共通するもの

渡辺僚一の他の作品にも散見されるテーマ性が本作品にも見られる。それは、“何のために生きるのか、その意味を問う”というものである。

霧とメアリー。彼女らは首なし騎士に借りを返し、復讐するために集っている。だが、彼女らは自らの意志でそうしているのではなく、他人から言われてそうしているのである。忍者という封建制を象徴したような役職と、他人の怨念によって駆り立てられた幽霊という以上は、他者の存在が自己よりも前に出るのは当たり前ではあるのだが、彼女らは役職云々の前に1人の人間、女の子なのである。それが自我を持たないなんてあまりにも辛いことではないか。

そんな彼女達だが、最初は首なし騎士を倒すことが自分らの命よりも優先事項であったのに、しだいにそれが変化していく。

首なし騎士に負けそうになった時に、強く生を意識する霧。死が眼前に迫った時にこそ、強烈に生を認識するなんて言うまでもないことだと思われるかもしれないが、彼女は忍者である。死を、そして生を訓練を通して昔から身近に感じてきたのだ。それらを目の前にしても、何も心残りを残さないように矯正されてきたのだ。そんな彼女が死にたくないと願ったのである。

そして一方、消滅のその直前まで相手を倒すことを最優先した首なし騎士。それを見て、メアリーはその面影に自己を見出してしまい、彼女の瞳に動揺の色が濃くなる。だが彼女はついにそれを振り払って、首なし騎士を撃退することに成功したのである。メアリーはこれによって、過去の自分との決別を果たしたと言えよう。

つまり、霧とメアリーはその関わり合いを通して、首なし騎士討伐という目的以上の繋がりを彼女らの中に発見したのだ。これこそが、彼女らを人間たらしめる、生きる意義なのではないだろうか。

霧とメアリーの慣れ初めをもう少し掘り下げれば、よりこのことが強調されたのではないかと気がかりになる。もちろん既に十分キャラクターとしてアイデンティティが確立されているのは、流石と言わざるを得ないことなのだが。

 

この生を切望するテーマ性は、渡辺僚一の他の作品、特にすみっこ系と呼ばれる終末を題材とした作品によく見られる。近作に『缶詰少女ノ終末世界』というものがあるし、気になった方は是非そちらをプレイすることをお勧めする。